天台宗岩殿山明静院
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岩殿山の歴史

諏訪大明神のご誕生(神話時代)


岩屋に自生する日陰のかずら
(正式名:イタビカズラ)
 神代の時代、出雲の神の大国主命が、ヒスイを求め高志の国までやってきました。 高志の国の糸魚川はヒスイの産地であり、そこには奴奈川族がおりました。 大国主命は奴奈川族の所へ行く前、風雨をしのぐ事のできる場所を探したところ、3つの大岩からなる、岩殿山の岩屋へたどり着きます。
 奴奈川族には若くてきれいな女酋長、奴奈川姫がおり、 大国主命は、奴奈川姫と結婚できれば、容易にヒスイを入手できると考え、奴奈川姫に度々求婚して二人は結婚されます。
 大国主命と奴奈川姫は、当山の岩屋で新婚生活を送ります。 そして、奴奈川姫は子供を身ごもり、産婆であった姥嶽姫命が、岩屋に生えていた「日陰のかずら」というつる性の植物をたすきにかけて、男の子をとりあげました。 のちの諏訪大明神、建御名方命のご誕生です。
 この話より、当寺院では安産のお守りを出しており、「日陰のかずら」をご神体としています。

岩屋に自生する日陰のかずら
(正式名:イタビカズラ)
 やがて、大国主命は出雲へ、奴奈川姫は糸魚川へ戻り、成人した建御名方命はこの岩屋に留まります。 そのうちに、天孫民族(天皇のご先祖様)がやってきて高志の国を譲るよう、申し入れてきました。 しかし、建御名方命はこれを拒み、高志の兵と共に勇猛に戦いましたが、かなわず、糸魚川から塩の道を通って信州諏訪の海へ逃れました。 以来、建御名方命は諏訪大社の祭神(諏訪大明神)となります。
 また、当山の岩屋の跡地にも、諏訪神社が祭られており、 平安時代の式内社には「阿比多神社」と記載されております。

岩殿山の開山(行基菩薩)

 天平13年(741年)、聖武天皇は全国に国分寺建立の詔を発布しました。 越後の国司は、自分の威信にかけて荘厳な寺を建てようとしましたが、職人もなく、財政難ということもあり、朝廷に救援を願い出ました。 これを受けた朝廷は、名僧行基菩薩を越後に派遣し、岩殿山に3年ほど逗留します。
 行基菩薩は、岩殿山の大国主命と奴奈川姫の話に感激し、国分寺を建立するとともに、岩殿山にも一寺を建て、岩戸山妙徳院と名付けました。 妙徳院はかつて、11の僧坊を有する大きな寺でした。 また、当時の妙徳院には釈迦三尊像が安置されていたようです。 (平成3年の本堂改築の時、古い本堂のかやぶき屋根の下から釈迦三尊像と思われる丸太のような仏像が発見されました。)
 昔、岩戸山を岩屋殿(いわいど)、11の僧坊をそれぞれ湯殿(ゆど)・素殿(すど)・玄入殿(げんにゅうど)・小宮殿(こみど)などと称し、 「岩戸山」が「岩殿山(いわどのさん)」となったのはこれによるものです。
 最近の学説では、岩殿山明静院が実際の国分寺であったのではないかと唱えられていますが、その真偽のほどは定かではありません。

弘法の硯岩(すずりいわ)


弘法の硯岩

弘法の硯岩
 平安時代、弘法大師は岩殿山へ参拝するため、越後国府(当寺院の地域)へおいでになりました。
 この日、これまでになく大きな船を造り上げた国府の人々は、船の船名『わくら丸』を帆布に大きく書くことを決めました。 しかし、船名を書くための墨と筆はありましたが、立派な字が書ける人、そして肝心の大きな硯がありません。 これに困った人々は、国府へ到着したばかりの僧侶(人々は弘法大師であることをまだ知らない)に頼み入り、硯を作ってもらうことになりました。
 大師は旅の目的であった岩殿山をお参りした際、偶然境内にあった岩を見て、これは硯石に使えるとお考えになり、一部を持ち帰りました。 そして、この硯岩を成形して大きな硯を造り、『わくら丸』という大きく見事な文字を帆布に書き上げたということです。
 人々は、大師が突然姿を消した後、僧侶が弘法大師であったことを知ります。

上杉謙信公墓

当山の上杉謙信公のお墓についてはこちら >

宝暦地震による甚大な被害


地震で欠け落ちた岩

地震で欠け落ちた岩
 寛延4年(宝暦元年)4月26日(西暦:1751年5月21日)午前2時、宝暦地震と呼ばれる大地震が発生しました。 これにより、岩屋の突出していた部分が欠け落ちて、諏訪神社が岩の下敷きになってしまいました。 神社の宝物の多くが岩の下になりましたが、一部は発見されております。 その後、諏訪神社は、以前の神社の横に再建されました。

本尊 大日如来について

 当寺院に安置されております本尊 大日如来(国重要文化財)は、行基菩薩がお刻みになったと伝えられており、 金剛界の大日如来で、像高145センチのカヤの木の一木造です。

 本尊は明治39年(1906年)4月14日に、新潟県内の国宝第1号に指定され、昭和25年(1950年)の文化財保護法の制定で国の重要文化財に変更されました。 昭和28年(1953年)には奈良国立文化財修理所(現・奈良国立博物館)の白石義雄主任技師ら6名の手により解体修理されました。

 さて、当本尊は学者の説によると、平安時代末期頃の作ではないかとのことです。 しかし、当寺院の縁起では、奈良時代の僧侶である行基菩薩の作とされており、学者の説と時代が一致しません。 そのため、このような立派な仏像を彫った優れた仏師は不明です。
 ご開帳法要は、1月1日~3日です。

皇族の方々のご参拝

 昭和の初期には、多くの皇族方が当山をご参拝になりました。 昭和8年(1933年)9月東伏見宮殿下、9月4日久邇宮殿下、10月高松宮妃殿下、昭和9年(1934年)6月東久邇宮殿下などの方々がご参詣されております。 中でも東伏見邦英殿下から頂いた、長文にわたる感想のお手紙(岩殿山訪問記)が残されております。